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真夏の日々-その2-

水曜日, 8月 12th, 2009

 

四世 今藤長十郎 長唄三味線公演に行って来た。目白庭園、赤鳥庵にて。主催者の友人からご招待頂いたもの。真夏に、大原麗子さんや、のりぴーの覚せい剤逮捕のニュースが流れ、いろいろと、自分の人生について考え込むことが多いなか、つかの間、優雅な時間を過ごして来た。目白駅から徒歩5分とは思えない静かな住宅街にある目白庭園。開演前には、園内を散策し、日本庭園を味わい、池の水鳥を眺め、すっかり和の雰囲気につつまれて。

 

お家元の奏でる三味線にもう一人の三味線方が、ユニゾンになったり合いの手を入れたり、絡まりながら、雅な旋律を奏で、長唄が始まると、私はすっかり江戸の時代に引き込まれてしまった。長唄には「本調子」と「合」があり、ソロをとったりユニゾンになったりしらがら4人の奏者によって奏でられた優しい時間がゆったりと過ぎて行った。

 

お家元のお話によると、三味線には細竿と中竿と太竿があり、細竿の三味線は、長唄や歌舞伎の音楽に使われ、中竿の三味線は関西の文楽、太竿の三味線は、津軽三味線に使われるのだそうだ。古代中国から沖縄に渡った三線は蛇皮を使うので、猫皮を使う三味線とはまた音色が違うのだ。これら三味線族の音は、生で聴くと以外に音量が大きく、倍音も沢山含まれていて、民謡や長唄の伴奏など、この楽器1本で、事足りるように思う。

 

沖縄民謡を聴きやすくアレンジしているものに、安易に西洋楽器のバンドのギターの代わりのような扱いのアレンジをしている音楽があるが、よほど注意深くしないと、ベースやらドラムの音とけんかして、魅力が相殺されてしまう危険がある。今は亡き作曲家、武満徹氏は、そこのところをよく理解して、琵琶とオーケストラのための音楽を、繊細なオーケストレーションで見事に表現したのだ。ポピュラー音楽での表現でも、民族楽器に限らず、多くの倍音を含むボーカリストの楽曲のアレンジなどでは、注意しなければならない。以外とシンプルなアレンジで良いのだ。逆に、倍音の少ない声の持ち主には、分厚いアレンジをした方がよかろう。話がそれたが、三味線族の独特の音色は、チューニングが変わり(狂い)やすいという楽器の特性も含んで、その魅力となっている。西洋発祥のバイオリン族やギター族も、湿度や温度で音程が変わるという特性があるようだが、その比ではないらしい。家元のお話だと、そのチューニングがかわることも含めて、調弦しながら演奏しているのだそうだ。そのことが、あの何とも言えないフィルターを通したような長唄の声色を生み、半音の半分くらい小幅のポルタメントで下がったり上がったりの揺らぎ(民謡のこぶしとは別物だと思う)を生み、豊かな情緒を持つ音楽世界に至ったのだ。曲の終わりには、長唄が大きな揺れを唄い、三味線方が、「いよっ!」とかけ声をかけるところがあるが、私はそこが大好きで、ぞくぞくする。江戸の粋を音に集約したようで、全くかっこ良すぎる。クールなのだ。

 

この日本独特の間を持つ文化、音楽は、決まったBPM(クロック、体内拍)があるわけではないが、大きな時間の波のような拍(ビート)が背後にあるような気もする。体内に決まったビートを持つアフリカの音楽文化圏の人は、日本人の1本締め「いよーーーーっ。パン!」をみると、なぜ揃うのか驚くといわれている。私は日本で生まれ育ち、一本締めも3本締めもふつうにできるのだが、4つ打ち音楽に慣れ、西洋音楽教育を長く教授し、仕事もMIDIを駆使し、決まったマップ上の時間軸に音符を置いて行く、という制作方法を長くやって来た身としては、飲み会の最後に酔っぱらっているのに大人数がなぜあんなに揃うのか、揃いすぎて気持ちが悪いと、改めて考えると不思議な現象である。長唄のおけいこはすべて伝承で、間の取り方、合いの手の入れ方など、4人がよくぞ、あんなに揃って演奏できるものだなぁ!!!と驚くこと驚くこと、しばし呆然とした。今、長唄を含め、マイルスやペペの音楽など、ポリリズムに強く惹かれるのも、私の個人史を考えると、すごく自然なことなのだろう。

 

それでは今日はこの辺で。