皇居マッドフラッドツアー体験記その5-富士見櫓と大手門の石垣
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富士見櫓
石室→富士見多聞と、広大な北の丸公園内を歩いて、
富士見櫓を下から見上げる場所にやってきました。
江戸城本丸跡の南東の隅にある三重櫓です。
明暦の大火(1959年)で天守が焼失したあとに、天守の
代わりとして使用された櫓、ということだそうです。
マッドフラッド界隈では、そもそも火事で焼けた、
というのが本当かどうか怪しいという立場なので、
何のために建てられたのか謎です。
名古屋城にも櫓がありましたので、もしかしたら、
ここには確かに江戸城があったのだという証のために
建てられた可能性があります。
きのうのブログに書いた富士見多聞も同様です。
さて、ガイドのジロウさんはマッドフラッドの観点で見た時に、
とても興味深い場所に案内してくれました。
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石垣と木
何の変哲も無い感じですが、よく見ると、 、 、 。
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石の間に入り込む根っこ
これは、石化する「木」のモデルだと感じました。
「石」はもともと「木」であった、というのが最新の
マッドフラッド研究をしている人たちの間での認識です。
大きな木の切り株のような山(断がい絶壁の岩)など
世界の至る所にその痕跡があります。
もし木であったのなら、巨人が木を切って重ねて積み上げて
石垣にすることも可能だったでしょうか。
それにしても、この不揃いな形の石がぴったりとはまって
石垣になっている様子を目の当たりにすると、
相当に高度な技術があったことは確かです。
こうして大手門方面へ向かいます。
北桔橋門を入ってすぐのところと同様に、石垣です。
たくさんの石垣、これは前文明、あるいは前々文明で
どのような役割があったのでしょうか。
そんなことに思いを馳せながら、歩きます。
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緑に癒されます
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石垣の大きさが伝わるでしょうか
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百人番所
百人番所を通り過ぎて、そろそろ大手門に差し掛かる
という時に、石垣の一個が置いてある場所に出ました。
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重さ7〜8トン(人の背丈くらいの高さ)
写真だと分かりにくいですが、この石を1個、伊豆半島
から運ぶのだって大変な労力です。
時間と費用がかかります。
どう考えても家康の時代にこれら全ての石垣が
当時の技術と人力で作られたとは思えないのです。
実際に見るとよく分かりました。
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放置されたような謎の階段
前出の富士見櫓は高さが23メートルの所にあります。
何となくですが、やはり、お城というよりは、
古墳や遺跡といった雰囲気もある皇居の敷地です。
お城があったということにするために、富士見多聞や
富士見櫓、百人番所などが明治以降に作られたような
気がしてなりません。
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見えてきた東京駅前のビル群
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門があった名残
このあたりを歩いているときは、下り坂が続きました。
23メートルから下ってきたのです。
この広大な北の丸公園を人為的に埋めたとする説は大きすぎて
不可能を感じました。
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大手門(敷地の内側から)
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内堀通りから
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大手門(正門)内堀通りから
皇居の下には、一体何が埋まっているのでしょうか。
それでは今日は、この辺で。
いつもお読みいただきまして、
どうもありがとうございます。