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坂本龍一氏のこと

火曜日, 4月 21st, 2009

坂本龍一氏の本「音楽は自由にする」を読んだ。最近、「千のナイフ」を聴き、それについての文章を書いた。そのことがきっかけとなってサントラアルバム「愛の悪魔〜フランシス・ベーコンの歪んだ肖像〜」の文章を書くことになり、それが雑誌に掲載されるという一連の出来事があった。それらは長い間封印していた、私の中の坂本龍一ファン、の部分をすっかり呼び覚ましたのだ。14〜15歳の頃、中学生であった私が一番影響を受けたもの、それがYMOであり、中でも坂本龍一という存在だ。

 

「音楽は自由にする」は、その龍一氏の初の本格的自伝である。特に興味深かったのは、幼少期から千のナイフまで。あまり知られていなかった子供時代のことが、門外不出の写真とともに、坂本さんの回想形式で語られている。

 

ドビュッシーの音楽と出会ったときの衝撃を、氏は、とても印象的に語っている。ドビュッシーと自分の区別がつかなくなるくらいのめり込み、生まれ変わりだと信じていた時期もあったようだ。私はドビュッシーよりもラベルが好きで、坂本さんほどではないにしろ、凄くのめり込んだ時期があった。ラベルはさておき、とにもかくにも、YMO+坂本龍一は、私を、ただ漠然とピアノを練習して音大をめざしていた人から、必死に作曲を勉強して音大作曲科に進み、彼のように新しい音楽を提供し、人々を熱狂させることのできる人になるんだ、という明確な目的意識を持たせた。

 

あれから30年、自分が龍一氏の音楽についての文章を書き、それがあの由緒ある批評雑誌「ユリイカ」に掲載されることになろうとは、ほんとうに人生何が起こるかわからない。600字程度の短い文章だったが、活字に印刷され形になると嬉しい。はじめて自分の音楽がサントラ版として固定されたときのような初々しい気持ちになった。

 

ここから先は、私はただのファンとしてバカ丸出しになります。龍一さんと私には共通点が多い、ということがわかって、実は少しほくそ笑んでいる。中学校のクラブ活動が吹奏楽部、高校のクラブ活動が合唱部。吹奏楽部は龍一さんはチューバを、私はトロンボーンをやっていて同じ金管楽器の低音担当。高校の合唱部は選んだ理由が楽だからという理由で、そこも同じなのだ。高校では、私も作曲の勉強を始めていたのでクラブ活動は楽ちんな方が良かった。龍一さんは、合唱団員の中に入るというよりは、指揮をされていたようで、私も歌っているときより、合唱の伴奏をしていることが多かった。さて、大学に進むと、龍一氏は学生結婚をし、生活費稼ぎのためバイトに精を出し始め、この辺から、龍一さんと私の共通点も少なくなっていくのだが、バイトに精を出し、というところは似ている。シャンソンの伴奏のアルバイト、これを龍一さんはやっていたそうである。私も名古屋市内のシャンソンライブハウスで、チェロの先生と一緒に、エレクトーンで伴奏していたのだ。東京から有名なシャンソン歌手が来た時も、ドキドキしながら演奏していたのが、やがて、そのお店は、店じまいしてしまった。

 

他にもまだある龍一氏との繋がり。高校の時、私が作曲を教わった先生が、香川県で一人居るか居ないかの、東京芸大作曲科卒業の女性。年の頃は、龍一氏とおなじくらい。ある日私は、自分が習っていた香川の作曲の先生に聞いてみた。「先生、坂本龍一さんてご存知ですか?」「あら、知ってるわよ。龍一君ね。芸大で同じ松本先生のクラスだったわ。」とおっしゃったかどうか、細かいところは忘れたが、とにかく、自分の作曲の先生が龍一氏と知り合いで、同じ門下であった、というそれだけで、私の和声課題への熱もますますヒートアップしたのだ。松本先生とは、松本民之助氏。俗に芸大和声本と呼ばれる、和声の理論&実習書の編集者の一人でもある。

 

それからもうひとつ、小学校の頃、龍一さんは祖師谷小学校に通っていたのだが、私も祖師谷に10年くらい住んだことがある。これは偶然で、たまたま、私が東京に出て来たとき入った不動産屋さんの紹介物件で、祖師谷に住み着くことになったのだ。ただしその頃はもう、龍一さんは既にニューヨークに引っ越していた後でしたが。とはいえ、よく通っていた居酒屋のマスターが龍一さんと同級だか何かで、飲みながら当時の話をしてくれたのを思い出した。

 

さて、ファンモードはこの辺で終わりにして、「音楽は自由にする」の中で、特に印象に残った箇所を紹介したい。龍一氏はニューヨークで9.11に遭遇し、一週間ほどマンハッタンに閉じ込められたのだ。そのとき、人は非常時には、普段切り捨てていたようなレベルの情報もすべて拾うようになるのだと。全方位に敏感になり、音楽というものはできなくなってしまうのだと。音楽が消えただけでなく、あの騒々しいニューヨークで音がしなかった。誰もクラクションも鳴らさず、針が落ちただけで人が振り向くぐらいのぴりぴりした感じが、ニューヨーク全体を覆っていたそうだ。そんな時に、誰かがギターを弾こうものなら、殴られかねない。「ああ、こういうふうになるんだな。」と。やがて歌が聴こえてきたのは、諦めからだそうです。テロから3日経って、もう生存者はいないことをみんなが理解したとき、ろうそくを持って街角に立つヴィジルという黙祷が催された。音楽が現れたのはそれからでした。喪に服するために、葬送という儀式のために、初めて音楽が必要になる。芸術の根源を見たようでもありました。と龍一氏は語っている。

本編では、「非戦」「音楽の力」とだんだんと日常に戻って行く様子が語られている。「アメリカとは?」では、アメリカの覇権国家が9.11をとりまく状況を生み出したのだ、という思いが語られ、音楽的にも文化的にも龍一氏が得てきたものはほとんどアメリカ経由であることに触れ、それを全否定したい気持ちになったと続く。ドビュッシーもビートルズも幻想だったんだと。

 

「ドビュッシーの、あの人類史上最も洗練されていると言ってもいい音楽にもフランスの帝国主義、植民地主義の犯罪性が宿っている。それは意識しておくべきことだとぼくは思います。」

 

この一文は、龍一さんだからこそ語ることのできる、今の地球の状況を言い表す、とても深い言葉として、私も重く受け止めた。

 

それでは今日はこの辺で。